与謝野町と堺市
2014年01月10日
私は、京都府宇治市で生まれたが、ほとんどは父の開業地である堺市堺区で育った。
小学校、中学校、高校と堺市内の公立学校に入学し、その地で泉州の布団太鼓とともに育った。
その堺市の駿河屋という和菓子屋に生まれたのは、俳人、与謝野晶子である。その後、晶子は鉄幹と結婚するが、鉄幹以上に晶子の俳句は値が高かった。江山文庫に晶子のいろいろな業績が眠っている。
私は、58歳で同窓生である浅野内科医院を継いだ。堺から与謝野町に移住してきた。
病院を初めて見て、これからの開業生活が始まるのだという妙に身に迫る緊張感を覚えた。
平成19年6月15日金曜日の初日、外来患者49人でスタートした。
その後、在宅医療と外来診療とを両立させて今日まできた。周りの地域の人々は、我々を快く迎えてくれた。生活は、年金生活者もかなり多く、厳しい現実があった。今まであった田舎祭りの子ども歌舞伎も中止になった。
毎週金曜日に堺市に帰るが、特に嵐に遭遇し列車が動かないこともあった。昔懐かしい着物のミュージアムや大名行列があり、マラソンが盛んで大江山がどんとそびえている。川は豊富に水があり、6月頃から鮎が捕れる。ちりめんの里の風情は、昔を思い出す大正、昭和の薫りがした。人々は、車に乗ってクリニックを訪れ、病気だけでなく生活のこと、孫のこと、嫁のことを言って帰る。
与謝野町は30%以上が65歳以上であり、昔のちりめんの商人達は80歳を超えて介護生活に入っている。一方、堺はビルディングがたちのぼり、銀行、生命保険会社やマンションのラッシュで生活はめざましく変貌している。人口は百万に届き、普段はゴミゴミしている。また、水は決して美味しくない。しかし、店はいたるところにあり、子どもも多い。
私は、この堺市がいやだから、ここ与謝野町に来たわけではないが、堺市には何か人々のどろどろした苦難と、生活のむずかしさを感ずる。
大学は阿倍野区の大阪市大へちんちん電車で上町大地を通った音が懐かしい。