院長の幼少期と大阪
2020年12月08日
大阪は、ゴミゴミした、煙の町だった。
昭和30年代、道頓堀のほとりに、ステーキ店があった。
時々、大きな車を、引いた、労働者が、引っ掛け橋を、横切った。
ほとんど日本人で、九州から出稼ぎに来た人や、時々、帽子を、被った紳士が、早足で歩く。
私は、小学校生で、父親に連れられて、テレビを見て、初代若乃花が高熱のため、
鏡里の優勝のシーンを、ステーキ店で見た思い出がある。
父と母は、大丸とそごうの、外商にはっていた。
そこから南に、二人に連れられて、高島屋の、お子様ランチを、食べた。
ようやく日本が、立ち上がろうとするとき、新聞では、吉田茂内閣支持率が上がると、
その後、岸首相になって、学生運動が、勃発、
さらに、岸首相が、アメリカとの、安全保障を、合意するや、大学時代になって、
佐藤打倒、さらに、学内団交、阿倍野交番襲撃事件、校内封鎖、と進む。
この頃から、我々団塊の世代は、社会人として、世界を、相手にする、大阪、そして、日本を作る。