院長と宴
2014年02月06日
私の幼き頃、場所は京都府宇治市宇治川。
宇治川の川床、舟遊びに同乗した。
真赤なたいまつが数本、すなわち鵜飼である。
4~5隻の舟がゆらゆらと川を下り、屋形舟の中で父と母が祖父(宇治市長)と親戚、
それに助役、警察署長の中、その真中では鮎のすき焼の踊り食いがある。
漁夫の方が鵜から鮎を取り上げるや、そのすき鍋に放り込む。
私はまだ2歳の頃であったが、その光景を見て
「はやく、このような大人になりたい!」
「はやく宴を楽しみたい!!」
と子供心に思った。
舟は4、5隻。時々接近しては又離れる。
あれから大人になって、父も頻回に酒の宴につきあわされた。
父は開業していた弟にプロパに連れて行かれ、
白浜や伊良湖で大阪医大仁泉会のメンバーとともに会食。
思わず微笑む父の顔が瞼に新しい。
私が開業医になってからも、家族、MRやコンサルタント、
病院でお世話になった事務員達と北新地や京橋、堂島あたり、ミナミで会食す。
会合の度に思う事は、あの頃の思い出。
酒が入ったメンバー達の笑い声、そしてためいき。
すべてすべて宴にぶつける如く話がはずむ。
人と人との交流の場、それが宴である。
ホテルニューオータニ大阪にて「祇園 さゝ木」のフェアに招待された。
院長の友人、A君 B君
2014年01月28日
A君は頚部筋肉腫と診断され、浜松医大で手術し、肉腫の全てを切除した。
その間、A君の奥さんからの電話で
「主人は一人で病室です。携帯電話番号を言いますので、暇があったら電話してあげてください。」と。
A君は静岡市清水区で皮膚科を開業している。
常に電話では自分が皮膚科専門医であることと、
医院が盛業で常に160~170人の患者をうけもっていることを自慢している。
A君の子供は3人とも医学部医学科に入学し、現在皮膚科2人、麻酔科1人の医師で、
いずれも専門医を目指し励んでいる。
一時、特養ホームも経営しようかとする程の経営自慢で
全国各地の開業医の実態や状況を把握している。
A君「おまえ知ってるやろ?あの内科のM君が、今大阪の近くで
月亭八方みたいに大阪弁バリバリで患者を診療しているぜ!はやってるぜ!」
ところで和歌山県で同じく皮膚科を開業しているB君は、
A君とは対照的に、専門医を持たずパート事務員1人のこじんまりとした医院を経営している。
土曜日の夜になれば大阪に出て来て、碁会所で碁を打ちシティホテルに泊まる。
その夜には囲碁仲間だけでなく、常に7~8人の医師仲間から電話がかかってくるほど
友人が多く誰からも愛されている。
B君「おい木村よ!近頃元気やなぁ!!
もう65歳になったら友人たちも時々死ぬぜ?木村も健康に注意せぇよ!
なんぼお金があっても、常に話し合える友人がおるのが一番いい。」
A君、B君とも、その考え方、生活状態、ポリシーには互いに譲らない頑固さがある。
院長と医学部入試
2014年01月21日
医学部入試は、はたして難しくなったのか?易しくなったのか?
私の入試時は、大阪市大医学部医学科60名が定員だった。
今は90名。しかし大学によっては、AO入試や地域枠入試もある。
市大医学部医学科は、私の当時、出来る受験生も、いわば出来の悪い医者そのものに傾倒した
一種の成り上がり者(失礼!!)も含まれていた。
よって入学者60名は、公立、国立、私立の各有名校に数名、まんべんなく入学していた。
つまり学校差よりは、個人の実力によるものが大きかった。
中にはせっかく医学部入学しても、東大に逃げたもの、また、市大ではがまんしきれずに
東大理三に入学したものもいた。
今は定員が90名。しかも各個人だいたい国立、私立の進学校のみで占めている。
つまり、作られた医大生。全く行き場を無くし、くずれ医師になってもおかしくない。
医学部の質の低下が叫ばれる今日、果たして本物の医師として世の中に通用する立派な医業研究スキルを持ちえるかというと疑問である。
団塊の世代の医師は、65歳に達するが、まだ健在で実力も充分あり、
まだまだ年金生活に入る程老いぼれてはいない。健康であれば、80歳まで。
我々の入試の厳しさは今の生徒には解らないはずだ。
ちなみに私は大阪市大医学部医学科を19番で現役合格している。
与謝野町と堺市
2014年01月10日
私は、京都府宇治市で生まれたが、ほとんどは父の開業地である堺市堺区で育った。
小学校、中学校、高校と堺市内の公立学校に入学し、その地で泉州の布団太鼓とともに育った。
その堺市の駿河屋という和菓子屋に生まれたのは、俳人、与謝野晶子である。その後、晶子は鉄幹と結婚するが、鉄幹以上に晶子の俳句は値が高かった。江山文庫に晶子のいろいろな業績が眠っている。
私は、58歳で同窓生である浅野内科医院を継いだ。堺から与謝野町に移住してきた。
病院を初めて見て、これからの開業生活が始まるのだという妙に身に迫る緊張感を覚えた。
平成19年6月15日金曜日の初日、外来患者49人でスタートした。
その後、在宅医療と外来診療とを両立させて今日まできた。周りの地域の人々は、我々を快く迎えてくれた。生活は、年金生活者もかなり多く、厳しい現実があった。今まであった田舎祭りの子ども歌舞伎も中止になった。
与謝野町のちりめん街道
毎週金曜日に堺市に帰るが、特に嵐に遭遇し列車が動かないこともあった。昔懐かしい着物のミュージアムや大名行列があり、マラソンが盛んで大江山がどんとそびえている。川は豊富に水があり、6月頃から鮎が捕れる。ちりめんの里の風情は、昔を思い出す大正、昭和の薫りがした。人々は、車に乗ってクリニックを訪れ、病気だけでなく生活のこと、孫のこと、嫁のことを言って帰る。
堺市のちんちん電車
与謝野町は30%以上が65歳以上であり、昔のちりめんの商人達は80歳を超えて介護生活に入っている。一方、堺はビルディングがたちのぼり、銀行、生命保険会社やマンションのラッシュで生活はめざましく変貌している。人口は百万に届き、普段はゴミゴミしている。また、水は決して美味しくない。しかし、店はいたるところにあり、子どもも多い。
私は、この堺市がいやだから、ここ与謝野町に来たわけではないが、堺市には何か人々のどろどろした苦難と、生活のむずかしさを感ずる。
大学は阿倍野区の大阪市大へちんちん電車で上町大地を通った音が懐かしい。
京都保険医新聞 平成26年1月5日 第2880号掲載
院長と阪神タイガース
2013年12月26日
私はもともと育ちが大阪で、阪神タイガースのファンである。
昔、小学校2年生の頃に父の医院でとっていたスポーツ新聞をいつも見ていた。
そのスポーツ新聞を子供ながらどきどきして愛読していた。
「昨日、阪神勝ったかなぁ?」と新聞にかじりついた。
「あっ!!また負けてる!!4対2で国鉄スワローズの勝ちや!」
「なんて事だろう、これで阪神3連敗。まったくいつまで阪神は負けるんやろうか!」
「これじゃ今シーズンも全く優勝はとても無理や!」
子供ごころにまるで自分の成績がオール3のような錯覚であった。
錯覚というよりもオール3以下の落胆ぶりだったことを覚えている。
64年間も生きてきて阪神はリーグ優勝たったの5回。
日本一はたったの1回。
これでは阪神に見切りをつけるのも当然。
この頃は開業医生活が忙しく、毎日の点数集計の日々と診療のミステイクが気になって、
とても阪神どころではない。
ややくずれた運転手のBさん。
「先生、スポーツ新聞で阪神の結果が気にならない?」と私に尋ねる。
私は「ぜんぜん」と。
事実この頃は阪神の結果について全く意識下には入らない。
全く気にしていないし、負けたといっても落胆はしない。
「もう私は阪神卒業や!!おめでとう!!!」
そう自分で自分の心にひそかにつぶやく今日この頃である。
院長と大江山
2013年12月17日
院長の周りには大江山があり、
冬になれば12月中旬には雪が白く斑点状に散在する。
その山の緑は8月から11月下旬までにさまざまの色調に変化する。
11月中旬からはイエロー、オレンジ、褐色、さらに深い黄金色へと
その木々が山々の体色のごとく変化していく様は、時に都会で育った私には実に興味深い。
前立腺を患ってハルンパックを持ちながら運転手のAさんと
アメリカンスタイルの喫茶店から大江山の麓の双峰公園へ。
ロッジ内の掲示物を見て落ち葉をとり
「そうや。もう私の開業7年目。やっとこの地に足場が固まった」。
ロッジの外の木々も「もう冬場に備えろ!」と急に冷たい風が吹く。
その後、また再びしとしと振りだした雨。
Aさんと医師の医学生、大学院生、そして専門の医師へと育っていく学生の様子と
卒業試験のテーマに語り合った。Aさんにとってそれは苦労か?
Aさんは高校卒業後、大学の入学も親から許されずに働きに出た。
Aさんが運転手として実に良く私をサポートしてくれる。
しかしAさんにとって、そんな医師の話はどうでもよいのかもしれない。
はっと我に返った時にはクリニックに着いていた。
院長が変わった?
2013年12月17日
私はこの9月下旬に大阪心斎橋でヘアピースを買った。
カツラは鳥越キャスターや筑紫キャスターの様なスタイルでシルバーではなく黒。
森進一風の髪型である。
患者さんは「院長が交代した」とか「若返った」とか巷の噂。
車の助手席に座ってて、あつらえたヘアピースを着用して車から降りると
二人の老婦人が「あれは誰?もしかしたら院長交代したの?」
それ程若返ったか。診療室の椅子に座り、前面の鏡越しに見ると
「やっぱり60歳台だなぁ」とためいき。
開業当日の夫婦2人の写真を大きく立てかけて、
その写真のバックには木村内科クリニックの表札の文字。
大きく白いライトで机上に輝かせ、前にはiPadを置き、右側には帽子がある。
右側の白い壁には、認定医と認定指導医の額が品良く飾ってある。
机の右側には京都府から補助金を受けたCR-レントゲンのブラウン管。
その前には循環器科の医師が主として愛用している聴診器が荒々しく置いてある。
とある患者さんは院長が変わったことよりも、
この診療室の「模様替えをしたのですか?先生」と。
12月を半ばでインフルエンザワクチンを注射しながら、
明日の往診の患者さんの名前をチェックする。
そうこうしているうちに6時がきて、
時計がその時刻をクラシックメロディとともに告げる。
何も変わっていない。院長は院長。
「やっぱり明日、往診の途中に本屋で週刊誌でも?」
「往診の途中に喫茶店でコーヒーでも?」
ほんの息抜きが毎日の活動源になる。
やっている事はこの1年何も変わっていない。
院長の携帯がない!!
2013年12月16日
私は在宅主治医として約57人位の在宅患者をもっている。
その時必要とするのが私の携帯である。
「あっ 先生ですか?今大阪ですか?」
「私は今顔がむくれて頭がくらくらして!!」
「あっ 先生ですか?私は今熱が出て眼がくしゃくしゃに…これって風邪ですか?」
時々大阪にいる時(土曜日)こんな電話でクリニックから転送して携帯にかかってくる。
私はそこから7時頃に車で与謝野町に向かいます。
車は一路舞鶴若狭道。
北へ北へ。雪の時は検問でスノータイヤかどうかいちいちチェックされる。
北へ向かいます。
北へ。山を越え、また山を越え、約4時間半車の中。
その時、時々車の中に「携帯がない!!」
困った。堺の自宅に忘れてきたか?
時々患者さんの暖炉の下にゴロリと落ちたまま私のもとに帰らないこともある。
携帯は私の命。命。大事な命である。
大阪の北新地で家内とはぐれた時も携帯がない!
おまけにコンタクトも落とした!!
もう何も見えない。困った。困った。
院長とバルセロナ カタルーニャ音楽堂
2013年12月16日
カタルーニャ音楽堂の赤い椅子に座りたい。
家内のいとこ(58歳・写真右)は、エリザベス女王とも一緒にテーブルを囲んだり、ダイアナ妃の父親から銅製皿を貰ったことがある。乗馬でオリンピック選手となり、日本、スペイン、欧州各地に乗馬の教室を開いてる。
家内はこのスペインのいとこの実家で約10日間滞在した。
私の次女も同伴し、乗馬のトレーニングを受けた。
ガウディの建築作品群があるスペインのバルセロナ。
とにかく私は、その市内にあるカタルーニャ音楽堂の赤い椅子に座りたい。
それが一生の夢である。
カタルーニャ音楽堂は、おそらく赤づくめの豪華な音楽堂で、スペイン各地から、また、ヨーロッパ、そしてアメリカから数々の音楽の天才達がやってきて、その生き血を奏でた場所がある。
フライトの時間は約10時間以上、17時間か?
とにかく疲れるらしい。
院長のおしっこが出ない
2013年11月29日
11月3日(日)、急に排尿痛と尿閉がおきた。
土曜日からおかしかったがもうがまん出来ない。
すぐ北部医療センターの救急科へと直行す。
バルーンを入れてハルンパックをつなぎ、超音波エコーと尿検査、血液検査。
診断は、尿路感染症と前立腺肥大症。
すぐ入院? まて、クリニックの仕事があると、
泌尿器科の医師は「お忙しいですね!!」
とりあえずハルンパックをつけて帰宅す。
その後11月18日、日帰り入院し、全身麻酔で尿道ステントを入れる手術をす。
約1時間後に麻酔からさめて、その後食事をす。
300gのビフテキを食べた。